「ホテルを売却したい。ただ、今いるスタッフにはできるだけ残ってほしい」
「M&Aをすると、従業員はいったん退職することになるのか」
「売却の話を、スタッフにはいつ伝えればいいのか」
ホテル・旅館の売却相談では、譲渡価格や買い手探しと同じくらい重要になるのが、従業員の雇用をどうするかという問題です。
長年一緒に働いてきた従業員への責任から、
「売却価格よりも、まずスタッフの雇用を守りたい」
と考える経営者も少なくありません。
一方、買い手にとっても、宿泊施設の価値は土地・建物や許認可だけで決まるものではありません。
支配人、料理長、フロントスタッフ、清掃スタッフなど、取得後も施設を運営できる人材が残るかどうかは、M&A後の事業継続を左右する重要な要素です。
そして、従業員の雇用がM&A後にどうなるかは、主に「株式譲渡」なのか「事業譲渡」なのかによって大きく異なります。
本記事では、ホテル・旅館・民泊などの宿泊M&Aにおける従業員承継について、スキームの違いから従業員への説明、労務DD、キーパーソンの引き留め、退職金・有給休暇・社会保険まで解説します。
この記事でわかること
◎株式譲渡と事業譲渡で従業員の雇用がどう変わるのか
◎事業譲渡で従業員本人の同意が必要になる理由
◎従業員にはいつM&Aを伝えるべきか
◎買い手が労務DDで確認するポイント
◎支配人・料理長などキーパーソンをどう承継するか
◎退職金・有給休暇・社会保険・外国人材の注意点
◎従業員承継をM&A成立後ではなく「条件交渉」に入れるべき理由
監修:INVESTEL M&Aアドバイザリーチーム
※本記事は一般的な情報提供を目的としたもので、個別案件における法的・労務上の判断を示すものではありません。実際のM&Aでは雇用契約、就業規則、譲渡契約等によって取り扱いが異なるため、必要に応じて弁護士・社会保険労務士等の専門家へご確認ください。
1. ホテルを売却したら、従業員の雇用はどうなる?
最初に理解しておきたいのが、
「ホテルを売却する=従業員も自動的に買い手へ移る」
とは限らないということです。
大きく違うのが、
株式譲渡と事業譲渡
です。
株式譲渡の場合
株式譲渡では、売り手が保有している会社の株式を買い手へ譲渡します。
変わるのは会社の株主・オーナーであり、従業員を雇用している法人そのものは原則として変わりません。
そのため、基本的には既存の雇用契約がそのまま継続します。
例えば、
「A旅館株式会社」が従業員を雇用していて、その会社の株式を買い手へ譲渡した場合でも、従業員の雇用主は引き続き「A旅館株式会社」です。
そのため、株式譲渡そのものを理由として、従業員全員と新しい雇用契約を締結し直す必要が生じるわけではありません。
事業譲渡の場合
一方、事業譲渡では、
ホテル・旅館などの「事業」を別の法人へ譲渡します。
売り手法人と買い手法人は別法人であるため、売り手と従業員との労働契約が当然に買い手へ移るわけではありません。
厚生労働省も、事業譲渡に伴って労働者を移籍させる場合、対象労働者から労働契約関係の移転について個別に同意を得る必要があるとしています。
つまり、
会社が「あなたも買い手企業へ移ってください」と一方的に決めることはできない
ということです。
従業員本人の意思確認が非常に重要になります。
株式譲渡と事業譲渡の違い

ここは宿泊M&Aにおける非常に重要な違いです。
2. 「従業員を引き継がない」だけで問題は終わらない
事業譲渡では、労働契約が自動的に買い手へ移転するわけではありません。
しかし、だからといって、
「買い手が欲しい従業員だけを自由に選べる」
と単純に考えるべきではありません。
厚生労働省の事業譲渡等指針では、事業譲渡における労働契約の承継について、労働者本人の真意による承諾を得ることや、労働者・労働組合等との適切な協議などが示されています。2026年には同指針も改正されています。
また、厚生労働省は、事業譲渡のみを理由とする解雇は認められない旨を示しています。
そのため実務では、
誰を承継対象とするのか
承継しない従業員をどうするのか
本人は転籍を希望しているのか
買い手はどの条件で雇用するのか
まで含めて整理する必要があります。
宿泊施設では特に、人材の承継がそのまま営業継続性に影響します。
「不動産・設備は引き継げたが、現場スタッフが大量に退職して営業できない」という状態になれば、買い手にとっても大きなリスクです。
3. 宿泊M&Aでは「人」そのものが事業価値になる
ホテル・旅館のM&Aでは、土地・建物、家具・設備、許認可、OTAなどに目が向きがちです。
しかし実際の運営には、
支配人
料理長・調理スタッフ
フロント
予約管理
レベニューマネジメント
清掃
施設管理
など、多くの人材が必要です。
特に、
「この人がいなくなると運営が止まる」
という従業員がいる施設では、その人物の継続勤務意向は買い手にとって重要なDD項目になります。
例えば旅館では、料理長が食事の品質を支えていたり、支配人が地域の取引先・旅行会社・常連客との関係を一手に担っていたりすることがあります。
このような場合、M&Aで承継すべきなのは単なる「従業員数」ではありません。
人に蓄積されている運営ノウハウや顧客・地域との関係まで含めて承継する
という視点が必要です。
4. 買い手は労務DDで何を見るのか
買い手側では、従業員について単に、
「何人いるか」
を見るだけではありません。
例えば、次のような項目を確認します。

特に株式譲渡では、法人そのものを取得するため、未払残業代などの潜在的な労務債務も買い手にとって重要な確認対象になります。
つまり、
「従業員を何人引き継げるか」だけではなく、「どのような労務リスクを抱えた会社なのか」
まで確認するのが労務DDです。
5. キーパーソンの退職はM&A価値にも影響する
例えば、
客室50室の旅館を取得するが、クロージングと同時に支配人・料理長・予約責任者が全員退職する
としたらどうでしょうか。
買い手は、取得直後から新しい人材を採用し、教育し、業務を再構築しなければなりません。
その間、
サービス品質の低下
予約管理の混乱
既存顧客の離脱
スタッフの連鎖退職
採用・教育コストの発生
などが起こる可能性があります。
そのためキーパーソンの残留は、単なる人事問題ではありません。
PMI(M&A後の統合)リスクや取得後のキャッシュフローに関係する問題です。
買い手によっては、
一定期間の勤務継続
役職の維持
給与・待遇の維持
一定期間勤務した場合のリテンションボーナス
などを検討するケースもあります。
重要なのは、
「M&Aが決まってから人をどうするか考える」のでは遅い
ということです。
主要人材については、最終契約やクロージング条件を詰める段階で、残留可能性と処遇を整理しておく必要があります。
6. 従業員には「いつ」M&Aを伝えるべきか
これは売り手から非常によく出る質問です。
結論として、すべての案件に共通する「この日に伝えれば正解」というタイミングはありません。
早すぎれば、
「会社が売られるらしい」
という情報だけが先行し、従業員の不安や離職につながる可能性があります。
一方で、直前まで何も説明しなければ、
「なぜ自分たちだけ知らされていなかったのか」
という不信感につながることもあります。
そのため、案件の進捗と従業員の役割に応じて、情報開示範囲を段階的に広げる考え方が重要です。
例えば、
初期交渉・意向表明段階
経営者・役員など必要最小限で管理する。
基本合意・DD段階
DDに協力する必要がある支配人・経理責任者等について、必要性を検討する。
最終契約・クロージングに向けた段階
雇用条件や承継方法を整理したうえで、必要な従業員説明を行う。
といった進め方です。
ただし、案件ごとに労働組合との協議、事業譲渡等指針への対応、本人同意の取得時期なども関係するため、単純に「最終契約後に全員へ説明すればよい」と固定しないことが重要です。
7. 従業員が本当に知りたいのは「会社が誰に売れるか」だけではない
従業員側からすると、最も重要なのはM&Aそのものではなく、
「自分の生活がどう変わるのか」
です。
例えば、
給与は変わるのか
賞与はどうなるのか
勤務地は変わるのか
役職は維持されるのか
シフトは変わるのか
休日は変わるのか
有給はどうなるのか
退職金はどうなるのか
今までの勤続年数はどう扱われるのか
といった点です。
そのため、
「会社のさらなる発展のためにM&Aを行います」
という抽象的な説明だけでは十分ではありません。
むしろ、
「変わること」と「変わらないこと」
を整理して説明する方が、従業員にとって理解しやすくなります。
8. 株式譲渡でも「雇用条件はずっと同じ」とは限らない
ここも注意が必要です。
株式譲渡では雇用主である法人自体は変わらないため、既存の労働契約は原則として継続します。
しかし、
「M&A後は永久に給与や就業規則を変えられない」
という意味ではありません。
買い手が取得後に人事制度や就業規則を見直すことはあり得ます。
ただし、労働条件を不利益に変更する場合には、労働契約法上のルールがあります。
厚生労働省が示す労働契約法第9条・第10条では、使用者が労働者との合意なく就業規則によって不利益に労働条件を変更することは原則できず、一定の場合には変更の合理性や周知などが問題になります。
したがって売り手側も、
「株式譲渡だから待遇は絶対に何も変わりません」
と断定するのではなく、M&A時点で確定している事項を正確に説明することが重要です。
9. 事業譲渡では「雇用条件」をM&A条件として整理する
事業譲渡では、従業員本人の承諾が重要になるため、買い手がどのような条件で雇用するのかを早めに整理する必要があります。厚生労働省の指針でも、事業譲渡における労働契約承継について、労働者の真意による承諾を得ることが重視されています。
確認しておきたいのは、
給与
役職
勤務地
勤務時間
休日
雇用形態
勤続年数
有給休暇
退職金
福利厚生
などです。
例えば、
「給与は同じだが、有給がなくなる」
「役職は維持されるが、退職金算定上の勤続年数がゼロになる」
となれば、従業員にとっては大きな条件変更です。
条件が曖昧なまま、
「とりあえず転籍に同意してください」
と進めることは避けるべきです。
10. 退職金・有給休暇・社会保険はどうなる?
この部分は、従業員承継で特にトラブルになりやすいポイントです。
株式譲渡
会社自体が存続するため、原則として雇用関係は継続します。
そのため、通常は勤続期間や有給休暇なども既存の雇用関係の中で継続します。
ただし、M&A後に制度変更等を行う場合は別途検討が必要です。
事業譲渡
事業譲渡では労働契約が当然に買い手へ承継されないため、
有給休暇の残日数
勤続年数
退職金算定期間
退職金債務を誰が負担するか
などを個別に整理する必要があります。
ここで大切なのは、
「事業譲渡だから全部リセット」
と最初から決めつけないことです。
売り手・買い手・従業員間で承継条件を明確にし、必要に応じて新しい雇用契約等へ反映させる必要があります。
また、雇用主が変わる場合には、社会保険・雇用保険についても必要な手続きが生じるため、クロージング日との整合を取りながら進めることが重要です。
11. 外国人スタッフがいるホテル・旅館は特に注意
宿泊業では、外国人スタッフを雇用している施設も増えています。
その場合、
「他の従業員と一緒に転籍すれば終わり」
とは限りません。
特に在留資格「特定技能」では、所属機関を変更する場合、在留資格変更許可申請が必要とされています。また、特定技能雇用契約を変更・終了・新規締結した所属機関には届出義務があります。
そのため、外国人材がいる場合は、
在留資格の種類
雇用主
業務内容
所属機関変更に必要な手続き
届出・申請のタイミング
まで確認する必要があります。
これはクロージング直前ではなく、労務DDの段階から確認しておきたい項目です。
12. INVESTEL視点|従業員承継は「人事」ではなく「事業承継」の一部
宿泊M&Aで重要なのは、
「従業員を何人引き継げるか」
だけではありません。
確認すべきなのは、
誰が施設運営を支えているのか。
誰にノウハウが集中しているのか。
その人が辞めたら何が止まるのか。
買い手だけで代替できるのか。
採用するとしたら、いくら・何ヶ月かかるのか。
ということです。
例えば、支配人が、
レベニューマネジメント
OTA管理
採用
シフト管理
旅行会社対応
クレーム対応
地域事業者との調整
を一人で担っている施設なら、その人の退職は単なる「1名減」ではありません。
複数の運営機能を同時に失うリスクがあります。
逆に、業務が標準化され、SOPやマニュアル、システム、権限分担が整備されていれば、人が入れ替わった場合の影響を抑えられます。
その意味では、宿泊M&Aにおける人材DDでは、
「誰が残るか」と同時に、「誰かが辞めても運営できる仕組みになっているか」
を見ることも重要です。
13. 売却前に売り手が整理しておきたいこと
売却を考え始めた段階で、従業員全員にM&Aを伝える必要があるわけではありません。
むしろ最初に行いたいのは、人事・労務情報の整理です。
具体的には、
従業員一覧
雇用形態
給与・賞与・手当
勤続年数
有給残日数
退職金制度
就業規則
36協定
労働契約書
残業時間
外国人材の在留資格
キーパーソン
属人化している業務
などを整理します。
この段階で未払残業代、契約書不足、規程と実際の運用の不一致などが見つかった場合には、買い手から指摘される前に対応方針を検討できます。
これは売却価格だけでなく、M&Aを予定通りクロージングできるかにも関係します。
まとめ|宿泊M&Aで引き継ぐのは「施設」だけではない
ホテル・旅館のM&Aでは、土地・建物、設備、許認可、ブランド、顧客など多くのものを承継します。
しかし、その施設を毎日動かしているのは人です。
株式譲渡では雇用主である法人が変わらないため、原則として既存の雇用契約は継続します。
一方、事業譲渡では労働契約が当然に買い手へ移るわけではなく、従業員本人の承諾を含めた適切な手続きが必要です。
そして実務上は、法律上の雇用承継だけでなく、
誰が残るのか。
どの条件なら残ってもらえるのか。
キーパーソンが退職しても運営できるのか。
従業員へいつ、何を、誰から説明するのか。
まで考える必要があります。
宿泊M&Aで本当に承継するのは、「箱」だけではなく「事業を動かす仕組み」です。
従業員承継はクロージング直前に処理する「人事手続き」ではなく、M&Aの初期段階から設計すべき事業承継の重要テーマと考えることが大切です。
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